Yoshitaka Furukawa
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YOSHITAKA FURUKAWA
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  ぼやけた視界が次第に輪郭を取り戻す。僕は檻の中にいる。ステンレス製の格子が冷淡に僕を囲っている。格子の外に焦点を移すと等身大の鏡があり、そこに僕であろう姿が映っていた。あろうというのは、そこに映った姿が普段の僕とは違っていたからだ。鏡に映っているのは手も足も毛むくじゃらなゴリラだ。あれがたぶん僕だ。いつもより毛深く重い右手をあげれば鏡中のゴリラは左手をやはり重々しくあげた。 

 周囲を見た。囲むようにそそり立つモルタル壁が台形に切り取った空はオレンジだ。十数匹のゴリラが岩山の上から下までランダムに散って座っている。僕を含めたゴリラ達が体育館ほどの広さに閉じ込められているのだ。檻の外の景色は無機質な灰色のモルタル壁。目をキラキラさせた見物客など存在しない。ここは動物園ではないようだ。記憶では僕は人間だった。名前は特殊被験者008号。それ以前の名は思い出せない。しかし、とにかく今、僕はゴリラのようだ。アメリカ人がゴリラのことをガゥリラァと発音することにゴリラになった今とて違和感はまだ拭い切れていないようだ。

 とにかく行動だ。毛むくじゃらな足が冷たいモルタル床を踏む。気配に反応した数匹のゴリラ達は体を強張らせる。僕を意識しているのだ。新参ゴリラに対する期待と排他に満ちた視線に真っ向から嘲笑してやる。

 ふと、右首のあたりをトントンとされた。右回りに振り返ると一匹のゴリラがいる。どこか切なそうな色を瞳におびている。僕は冷静に新参ゴリラの謙虚さで挨拶をした。

「あの、こんにちは」

 日本語で言った。つもりだった。けれど驚いたことに僕の唇からはウホウホという音がこぼれるだけだった。右首のあたりを触ったゴリラが口を開く。

「あなた、いい男ね」

 僕のウホウホが伝わった? いやそれより右首のあたりを触ったゴリラの「ウホウホ」が理解できてしまったことに驚愕だ。ちなみに音としてはウホウオホと聞こえた。あなたいい男ね、か。このゴリラはメスなんだというあまり興味を持てない仮説が立った。右首のあたりを触ったゴリラはきっとメスゴリラで、かつ僕を異性として意識しているのだ。

「いえ、大丈夫です」

 ついつい拒絶をするとメスゴリラはふいに憤慨して僕の頭を太い手首で殴った。強い痛みにパニックになりかけるが、ゴリラ体が記憶している強めのドラミングで対応した。胸を叩くうちに不思議な気分になった。高揚感、というか自分は強者なのだという全能感。人間にはない野性的で単純なリラクゼーション。

 ドンドンドン。ドンドンドン。ドンドンドン。

 メスゴリラは僕のゴリラめいた行動に一瞥をくれた後、キュートなナックルウォーキングで去った。メスゴリラの先に待っていたのは他ゴリラより一回り巨大なゴリラだった。背中に鞍状に生えた見事なシルバーバックが陽光に透けて光っている。大きさもさることながら、その体毛の褐色は他ゴリラの数倍の濃度を誇っていた。僕はそいつに幸治(ゆきはる)と名をつけた。母の弟である幸治は巨大な体躯を持ち、その身体的能力は人間を超越していた。しかし知能に劣り、かつ怠惰な性格、故にその能力を持て余し、結果、成人玩具製造のライン作業に従事しているのだ。幸治はこのゴリラ世界でこそ輝ける逸材だったのだと不意に直感したが同時に人間集団の中で孤立する一匹の幸治を想像し不憫にも思った。さて幸治はメスゴリラのケツを撫で回しながら僕に対して侮蔑的な視線を投げる。ヘゲモニーはそちらにあるとでも言うつもりか。けれど僕は人間だ。挑発を受け流すことができる。鼻で笑ってやると幸治に背中を向けリンゴのほうへ向かった。リンゴ? どうしたことだろう、どうにもさっきから無性にリンゴが食べたい。これはゴリラ化の副作用か。エサ場に近づくと一匹の別ゴリラが行く手を阻んだ。体格は僕よりも小型だ。例に漏れず目に悲しみがある。

「あなた、いい男ね」

 おお、こいつもメスゴリラだ。別のメスゴリラだ。メスの別ゴリラでもあるのか。いやどうでもいい。こいつらにはボキャブラリーというものがないのだろうか。いやボキャブラリーの前に無神経だ。田舎の青春のように性と暮らしが密接なんだ。あなたいい男ね、か。僕がとにかくリンゴを食べたいように、この別メスゴリラも僕を食べてしまいたいのだろうか。

「いや、大丈夫です」

 しまった、と思った時には遅かった。ボキャブラリーの貧困さは僕も同じだった。先ほどと同じく瞬発的拒絶に憤慨した別メスゴリラの頑強な手首で肩を数発殴られてしまった。僕にとってすでに経験でもあるドラミングで威嚇する。ゴリラ世界で困ったら、とりあえずドラミングしとけばいい。単純なもんだ。ドンドンドン。ドンドンドン。ドンドンドン。そして全能感。

 終わらないドラミング行為を横目に別メスゴリラは素敵なナックルウォーキングで立ち去り幸治のもとへ向かった。またか。また幸治か。気が進まないが見上げると幸治はやはり薄ら笑いを浮かべて見つめている。自慢なのだろうか、シルバーバックを毛づくろいしながら鼻歌を歌っている。挑発しているのだ。幸治は風邪でも仕事に行きはる。京都ギャグを思いついてしまった。

 とにもかくにもわたくしゴリラは全ての欲望の前にリンゴがあった。急ぎ足もとい急ぎナックルウォーキングでリンゴを探す。エサ場はすぐに見つかった。簡易なゲージの中にあった。ゴリラが好きそうな藁状の何かが山盛りになっている横のスペースに置いてある安っぽいブルーコンテナの中にリンゴがあった。コンテナの中に。いや、もっと気の利いた器があるだろうに、と少なからず高級人間的不満が僕を襲ったが、リンゴの危険な赤さはそんな高級人間的不満を些細なことにした。中毒患者のそれのように慌ててリンゴへ手を伸ばそうとした時だった。とんとん、と肩を叩かれた。

 振り返ると僕よりも一回り大きな体躯を持った別ゴリラがいた。右目の上に深い傷跡がある。武闘派の迫力をコブのように膨れた筋肉に備えてる。僕は警戒した。体制は不利だった。背後を取られている。しかも僕はリンゴに手を伸ばして無防備な状態だ。

 リンゴを取る、取らない。二つの選択肢。僕は考えた。この武闘派ゴリラのさっきのとんとんにいかなる意味が内在しているかが生還へのヒントとなるはずだった。「てめえ○勝手に○俺の○リンゴを」という排他的かつ暴力的とんとんだったのならリンゴを取らずアルカイックスマイルで問題を有耶無耶にしながら向かい合い「ゴミ収集車の騒音は仏様からの旋律とハモってますか?」と誰もが不安になるようなセリフを言う。「おまえ○初めて◯みる◯顔」というリンゴ的無関係かつ小市民的単純で低能なとんとんだったのなら僕は赤いリンゴを手に取り一口だけかじり、りんご的香りとりんご的食感を楽しみながら「きみもどう?」とダニエルクレイグ然ともう片方の手で取ったリンゴを放ってやればいいのだ。

 正直リンゴをべらぼう食べたい僕は後者を選択したい。しかし僕は特殊被験者008号。感情的な行動は避けなければならない。りんごから手を離しゆっくりと向き合う。武闘派ゴリラはニヤリと口角を上げた。

「あなた、いい男ね」

 おお、こいつもメスゴリラか。武闘派メスゴリラだ。いや、待てよ。いや、おかしい。強烈な不安。考える。不安は確信に変わる。確信を動力に僕は自然な仕草でリンゴを取り外へと飛び出した。武闘派メスゴリラはぴくりとも動かない。僕は近くの別ゴリラに話しかけた。

「やっぱキングコングって憧れる?」

「あなた、いい男ね」

 心臓が世界的なダンサーのように暴れている。

 もう一匹の別ゴリラには思い切って言う。

「おまえからウンコの匂いがする」

「あなた、いい男ね」

 なんてこった。つまり僕の確信めいた不安は的中していたのだ。問題は文法処理能力にあるようだ。聴覚に問題があるわけではない。なぜなら今までゴリラ達の発してきた音声自体は聞き分けることができていたからだ。ゴリラってば本当にウホウホって言うんだー、ていうくらい古典ウホウホから、ウフオウフオホのような前衛ウホウホまで音は多彩に変化している。ただどんな音を聞いてもゴリラが喋っているというインパクトが僕の前頭葉のブローカ野を刺激して「あなた、いい男ね」という意味に変換させてしまっていたのだ。原因は人間世界に浸透しているゴリラは人間の下位互換的生物であるという偏見か。

 不意にドラミングしそうになるが堪える。今はゴリラめいた行動よりも高級人間かつ特殊被験者である自分を思い出さなければ。よし深呼吸して瞑想だ。呼吸法でトランスだ。声がする。ウホウホが数珠つなぎに襲う。遠くの声も近くの声も目の前の別ゴリラも「あなた、いい男ね」を繰り返す。目をぎゅっと閉じる。既成概念を排除して念仏を唱える。「メスゴリラの尻はセクシー」「メスゴリラの尻はセクシー」「メスゴリラの尻はセクシー」あ、そう見えてきた。つまり全ては視点。見かた。気の持ちようだ。そう、わたしはガゥリラァ。ぬるりと目を開き真白い世界から現実に帰る。

 目の前ゴリラは穏やかな顔つきで頷く。

「それでいい」

 目の前ゴリラの情調こもる言葉に頷く。周囲を観察する。全てのゴリラが見ている。幸治もメスゴリラも別メスゴリラも武闘派メスゴリラもまだ話してない他ゴリラも穏やかな表情で僕を見守っている。これが承認か。目の前ゴリラに目礼してエサ場にナックルランニング。ケージに入る。中にいた武闘派メスゴリラに話しかける。もう怖くない。そもそも考えてみれば武闘派ではあるがメスゴリラではないかもしれない。「あなた、いい男ね」は脳味噌のバグなのだ。全ては僕の独りよがりな偏見なんだ。

 武闘派ゴリラ(性別不明)が口を開く。

「おい貴様、食糞を知っておるか? 少々汚ない話だが、出したクソを食すことを食糞と言うのだ。あれはいい、なんというか、いいのだ。みなは消化しきれないまま糞とともに排泄された栄養素を、そのクソを食すことによって根こそぎ獲得するためと言うがわしは賛成いたしかねる。いやなんなら反対じゃ。詰まるところな、みなクソが好きなのじゃ。様々な理由をつけてクソを食すのだ。なぜ? それは……うまいからであろう。こら貴様、そう気持ち悪がるでない。こいつ武闘派ゴリラじゃなくてクソゴリラじゃんって思うたろ。それにこの大名のような口調も気になっておるな。やめろ。すべてやめるのだ。偏見を捨てんとさっきと同じ轍を踏むことになるぞ。それにな、なにも食糞文化はゴリラの専売ってわけではない。ほとんど全ての動物がする。人間だってそうじゃ、クソを食う奴もおる。しっかりおる。塗糞と言って壁に自分のクソを塗りたくる奴もおる。しっかりおる。糞尿愛好家ってのが人間には存在しておろう? それ。それじゃ。ゴリラも栄養素を再獲得するためなんかではなく、クソを愛好しているにすぎぬ。少なくともわしはそう、いいのだ。それに...」

 終わらない拷問のような会話から一刻も早く逃れるために僕は一か八か言う。

「ウホウホ」

 人間世界における「ウホウホ」はゴリラの鳴き声を擬音化したものだ。ではゴリラ世界における「ウホウホ」は一体何にあたるのだろうか。ゴリラ世界では人間世界におけるゴリラに該当するような下等生物は存在しない。では人間世界における下位互換生物の比喩的言語である「ウホウホ」はゴリラ世界では何を意味するのだろうか。「ぺろぱん」のように全く意味をなさない言葉と認識されてしまうのだろうか。ぼくは武闘派スカトロゴリラ(もしかしたら大名かも)を観察した。彼はさっきまでの熱意が嘘のように冷めた目でただただにじむ虚空を見据えるのみであった。